最新情報 NEWS
師匠は人生で1人だけ
7月3日に本格手打もり家は25周年を迎えた。
僕は朝礼やSNSで間違って26周年と言ってしまった。2001年7月3日に高松本店がオープンしたから25周年が正解だった。
僕が入社したのは2008年の9月。東京から香川に帰ってきて、これがラストチャンスだという思いで意を決して店に電話した。
「すみません、そちらで働かせていただきたいのですが、、、」
すぐに社長に電話がつながった。
「はい、森田です」
「村井と申します。一から勉強させてもらいたいので、ぜひ働かせてください」
「あー、じゃあいつ面接に来れますか?」
「いつでも大丈夫です。明日にでも行けます」
「じゃあ、今週の金曜の15時に来れますか?」
「はい、よろしくお願いします」
こんな感じのやりとりだった。
面接の日ははっきりと覚えている。僕の誕生日だった。
「村井と申します。本日はお時間をいただきありがとうございます。ぜひよろしくお願いします!」
「28歳?」
「いや、今日誕生日なので、29歳になりました」
「あーそう。おめでたい日に面接に来たね。いつから働けますか?」
「いつでも大丈夫です!」
「じゃあ明後日から来て」
本当にこんな感じで入社が決まり、その日からもうすぐ18年になろうとしている。
当時は修業生が10人近くいて、新しい修業生が入っては辞めての繰り返しだった。有名店で技術を習得して地元でうどん店を開業したい、そんな夢だけで飛び込んできている人間ばかりの集まりで、僕もその1人だった。
数ヶ月後には体重が15キロくらい落ちるくらいの激務だったが、生きている心地がしたし、何よりもうどんに夢中になっていた。
気がついたらうどんを打てるようになり、社長に檄を飛ばされながらお店の中心になっていった。
そんな中、本格手打もり家がもうすぐ10周年という節目を迎えようとしていた。
朝礼の場で僕はこう言った。
「もり家が10周年を迎えました。この場にいることを誇りに思います。そして10年という時間、打ち台に立ち続けた社長を心から尊敬しています。この10年が20年につながるように今日1日精一杯お客様に感謝して仕事をします」
そして、そこからあっという間に10年が過ぎて、気がついたら僕は店に残っていて社長の右腕になっていた。残った理由は2つあった。みんなが独立していく中で、1人くらい最後まで社長を支える人間がいないといけないと思ったからだ。社長がいなかったら今の自分はない。そして、誰よりも一番先に辞めるだろうと思われていた自分が、気がついたら誰よりも本格手打もり家に対する愛情を持ってしまっていたからだ。もり家を未来に残したい、本気でそう思うようになってしまった。
20周年の時、僕は社長の等身大のパネルを作った。20周年はお客様に感謝を伝えるのはもちろんだが、それ以上に社長の20年間を祝いたかった。現状に満足したことのない社長に、たまには自分自身を労って欲しかった。
だから「社長、20周年おめでとうございます!」と伝えた。
そして、25周年を迎えた。今回は言葉も何もないし、イベントも何もなかった。25周年の日に社長は県外の催事に出張してお店を留守にしている。
初めて会った日から社長が休んでいる姿を見たことが1度もない。独立してお店のことが頭から離れたことは1秒もないだろう。本格手打もり家は社長のすべてなのだろう。
話は変わるが、今でも将来の独立を志して応募してくれる人が年に何人もいる。
どうやったら成功できますか?という質問をたまに受けたりするので、僕は逆に質問してみる。
「独立して成功するための絶対条件は何だと思いますか?」
正解した人は過去に1人もいない。資金・人脈・スキルと言った答えが出てくるが、それは必要条件であり絶対条件ではない。
絶対条件は1つしかない。独立することだ。独立しないと独立して成功することはない。将来お店を持ちたいと夢を持つ人が10人いたとすると、本当にお店を持つ人は1人くらいだ。もっと言えば、実際にお店を持った人が10人いたとすると、繁盛店を作るのは1人くらいだ。そう考えると、独立して繁盛店を作ることを実現する人は100人に1人ということになる。
ただしこれは理屈でしかない。理屈よりも大切なことがある。それは人間の内側から、それこそ血液から湧き出てくるようなフツフツとした想いだ。経営的な言葉で表現すると「創業の念い」ということになるのかもしれない。
高校を1ヶ月で中退し、遊びに明け暮れていた16歳の時、見かねた父親に叔父さんの経営するうどん店で働くように言われ、半ば強制的にうどん職人の門を叩いた。最初は仕事半分、遊びが半分だった。ただ、自分が手打ちしたうどんを社長や先輩から褒められた。
「お前はうどん打つんがうまいのぅ」
人生で初めて褒められた。ずっと引っ込み思案な性格だったが、少し自信のようなものを感じることができた。
当時大繁盛店だった店舗で毎日100枚以上のうどんを打って経験を積んだ。叔父であり師匠でもある社長から「真心」の大切さを学んだ。
20代になって店長を任されるようになって、自覚のようなものが芽生えた。最初は父親のすすめで始めた仕事だが、最終的に選んだのは自分自身。この仕事を生涯の仕事にしよう。
そして、劣等生で1番になったことのない自分だが、うどんだけは誰にも負けたくない。
20年の下積みを経た35歳の時、独立を決意した。叔父が社長を勇退し社内の体制が変わったのがきっかけだった。当時はセルフうどんが台頭して、いわゆる一般店が斜陽になっていた時期だった。うどん職人がないがしろにされているような悔しさがあった。自分がやってきたことが否定されるような感覚。
自分を試してみたい。自分の考える理想の讃岐うどんを世に問いたい。うどんだけは絶対に誰にも負けない。
そして2001年7月3日に本格手打もり家を創業した。父親が物件を見つけてきてくれ、借金もして助けてくれた。20年勤めた会社の倉庫に眠っていた中古の備品を格安で譲ってもらって仕上げた。
誰がやってもすぐに潰れるいわくつきの物件。周りからは絶対に失敗すると反対された。
金儲けする気などない。食っていければそれでいい。ここでやらないと一生後悔する。
開店した時には開業資金が底を尽き、運転資金などあるわけがなくポケットに数百円しか入っていなかった。
でも絶対的な自信があった。揺るぎない自信。それは、来てくれたお客様には絶対に満足して帰っていただくというもの。いっぺん食べてもらったら絶対に納得してもらえる。
そして、あっという間に口コミで繁盛店になった。あそこのうどんうまいで!いっぺん食べてきまい。そんなお客様の声が広がった。
いろんな人が手伝ってくれたが、肝心の仕込みやうどん作りは1人でやるしかなかった。深夜から生地を練り、出汁を炊き、トッピングなどの仕込みをして、開店までに1日分の生地を手打ちして毎日の営業を迎えた。ひっきりなしにお客様がご来店されるピークタイムをこなす姿を見て、父親が「お前はようやるのぅ」と感心してくれた。疲労困憊の日々だったが、これまでと比較にならないほどのやりがいと達成感を感じることができた。
自分からうどんを取ったら何も残らない。1枚1枚の生地を来る日も来る日も命をかけて手打ちした。
2015年にはHNK「プロフェッショナル仕事の流儀」に出演した。同業者や関係者から多くの推薦があったこと、そして多くの弟子を輩出したことが選ばれた理由だった。そして日本を代表する手打ちうどん職人になった。公共の電波を使って世に出させてもらった以上、それに見合う人間にならなくてはいけないと決意し経営者として学び始めた。
25年が経った。
僕はシンボルタワー店の打ち台で手打ちをしながらこう思った。
社長がいなかったら、このお店もなかったよな。
シンボルタワー店を立ち上げた表向きの理由は、地元香川に恩返しをしたいというものだ。もちろんそれは本当だ。
誰にも打ち明けていないもう一つの理由がある。
それは、「本格手打もり家」の屋号を未来に残すという、社長に対する恩返しだ。
僕の人生で師匠は社長1人だけ。だから僕も生涯うどん職人でいたい。
