店長ブログ BLOG

2026 / 09 / 17  22:18

給食場のおばさん

給食場のおばさん

シンボルタワー店のオープンから一緒に頑張ってきたヒエウ君と兼松君から誕生日プレゼントをもらった。

センスのいい紺色のネクタイだった。わざわざ休みの日に買い物に出かけて僕のために選んで買ってくれたと思うと本当に嬉しい。

誕生日は振替で臨時休業だったので、いつものように実家で過ごした。

オカンが鰻丼とポテトサラダを作ってくれた。「飲食店はどんなに頑張っても、おふくろの味にはかなわない」と社長がよく言っていたが本当にその通りだと思う。

オカンは僕が誕生日を迎えるたびに必ず「タケシは23歳の時の子や」とお決まりのフレーズを何度も言う。僕は仕方なく「はい、はい」とだけ相槌を打ってあげた。

オカンは信じられないくらいの苦労人だ。幼少期に何度も通ったオカンの実家は江戸時代にタイムスリップしたようなボロボロな家だった。じいちゃんが働いていた造船所の社宅で、家賃は月1,000円だった。いつ倒壊してもおかしくない状態だったが、本物の五右衛門風呂を、じいちゃんと一緒に薪を割って火を点けて沸かすのが楽しくて仕方がなかった。

オカンは長女で、妹が2人、弟が1人の4人兄弟。高校生の時に母親が保証人になって莫大な借金を抱えてしまい、高校3年生の時から通信制に切り替えて病院の受付の仕事に就いた。両親は借金が原因で離婚し、稼いだお金はすべて生活費と借金の返済に充てた。21歳でお見合い結婚し、22歳で姉ちゃんを出産し、23歳で僕を出産した。出産の2日前まで働いて院長に「ええ加減にせえ」と怒られたらしい。遊んだ記憶がない、がオカンの口癖だった。

僕が小学生になった頃から、病院の受付の仕事を辞めて、三木中学校の給食場で働き始めた。当時の三木中学校は生徒が1,300人くらいいて、とんでもない量の給食をオカンは毎日作っていた。オカンは三木中学校で10年、その後異動になり白山小学校で21年、合わせて31年もの間、給食場で働いた。友達はみんな、僕のオカンのことを給食場のおばさんと呼んでいた。

僕は一度だけ、三木中学校に通っていた頃にオカンが働いている姿を見たことがある。体調を崩し早退することになって、担任の先生と一緒に給食場で働くオカンに伝えに行った。戦場のような給食場でオカンは汗を噴き出しながら働いていた。早退することをオカンに怒られると心配していた僕だったが、そんなことはどうでもよくなるくらい給食場で働くオカンの姿に圧倒されて、強烈な記憶になった。そしてオカンを誇らしく思った。

「給食場ってすごいな!」仕事を終えて帰ってきたオカンに僕がそう言うと、「大変じゃわホンマ」とオカンは笑いながら答えた。そして「でも、お母さんは料理がうまいから、毎日食べ残しないけんな。生徒さんが、おばちゃん今日も給食美味しかったって言ってくれるけん頑張れるんや」と自慢げに言った。

僕が飲食の仕事に就いたのは間違いなくオカンの影響だ。あの時、オカンが給食場で働く姿を見ていなかったら、僕は他の仕事をしていたと思う。

僕は一度だけオカンの母親に会ったことがある。オカンの実家に行くと、じいちゃんがいつものように僕と姉ちゃんと外に遊びに連れ出した。その日は「ちょっと寄るところがあるけん」とだけ言って電車とタクシーで遠くまで連れて行かれた。「どこ行くん?」と僕が聞くと、「親戚のおばさんの家や」とじいちゃんは言った。その家に着くと、「おーい、おるか?」とじいちゃんが大きな声で親戚のおばさんを呼んだ。奥から親戚のおばさんが出てきて、「ミチヨの子供や。サオリとタケシや」とじいちゃんが言うと、そのおばさんは何とも言えない表情に変わって黙って僕と姉ちゃんを見た。そして挨拶だけ済ませてすぐに去った。「親戚のおばさんに会ったことはオカンには絶対に言うな!言わんって約束したら小遣いやるけん」とじいちゃんに言われたので、「絶対に言わん!」と大声で約束して小遣いをもらった。姉ちゃんは気づいていなかったが、その親戚のおばさんは間違いなくオカンの母親だった。

この前、久しぶりにオカンが姉ちゃんと一緒に店に来た。僕が手打ちしたうどんを食べたオカンは、あの日の親戚のおばさんとそっくりな顔で「美味しかったわ!」と笑顔で僕に言った。